Twitterは悪意を吐き出すには大きくなりすぎた
人間はしばしば
物事を二項対立に持ち込みたがり、
主語を大きくしたがり、
感情に白黒を付けたがる。
それが如実に現れた。
#好きです韓国
#嫌いです韓国
少し前、この二つのハッシュタグが盛んに用いられた。
冷え込む日韓関係の中、
政府同士とは関係なく、国民同士は仲良く
という考えの元々韓国が好きな人に作られた前者と
それに対抗して、元々韓国があまり好きでない人が作った後者。
隣国に対する好意と悪意が溢れた。
好意を向けることと悪意を向けることは、
等しいことのように見えて全く違う。
好意を吐き出しても何も害は及ぼされないが、悪意を向けることは傷つける事を含むからだ。
当たり前の事だが、大事な事だ。
でも、だからと言って悪意を持つこと自体が悪い事だというわけではない。
悪意を「向ける」事が問題なのだ。
かつて、世界はもっと閉じていた。
悪口でも、信頼できる誰かとだけ実際に話してそれで終わり。
文字や動画で残る事もないから、聞かれても証拠不十分で言い逃れられる。悪口の対象に、その悪口は普通届かない。
少し違うけど以前のインターネットの世界も似ていた。
昔のインターネットの世界は閉じられた狭い世界だった。
一部の限られた人達の物で、同じような考えの人が集まり、その人達の間でだけ話をして、その話は基本他所に漏れない。
漏れても個人を付随する情報が誰が言ったか分からない。
しかし今は違う。
インターネットから匿名性が失われた事によって、
悪意を吐き出す人間の確実な存在が明白になったのだ。
つまり、高い匿名性を保持していれば、悪意が存在しても、悪意がそこに存在するだけだったが、
匿名性が失われ、例えばTwitterなら、悪口の発言者の普段のつぶやきやFFを確認できるようになり、
悪意がそこにあるだけではなく、
「悪意を持った誰か」
がそこにいることが明確に感じられるようになってしまったという事だ。
さらにもう一つ。
インターネットの世界が広がった事により、
悪意の発信者と、その対象が比較的高確率で同じ土俵に立つようになった。
先に述べたように、インターネットが一部の人のものである間は、悪口の対象は多くがインターネットの世界にいない人に対してだった。
例えるならばリングの中にいるボクサーへの、姿が見えない観戦者からのヤジ。
ボクサーは、「外野がなんかいってるわ〜」程度に捉えることが出来た。
しかし、今はボクサーが観客席に来てしまったために、目の前の人間からヤジを受けている。
これはTwitterなら、リプライや引用RTで
悪意を相手に直接吐き出すこと。
これは辛い。
しかし、先にも述べたように悪意を持つのは悪い事ではない。
むしろ悪意が存在しない世界は有り得ない。
ではどうすれば良いのか。
結論
悪口は絶対に本人に届かず、
後に残らない形で言え!
つまり、悪口にTwitterを使うな!
どうしてもTwitterを使いたければせめて相手に見えないように鍵垢を使え!
以上不安ばっかりでした。