自殺は悪なのか?

世間ではよく自殺は悪いこととして扱われる。

しかし、果たして本当に悪いことなのだろうか。

自殺という人生の選択は許されないのだろうか。

好きなように、自由に生きよと人は言う。

ならば自殺をする自由もあって然るべきではないのか。

 

はい。不安ばっかりです。

(。・ω・)ノ゙ コンチャ♪

今回の文章は別に私自身が死にたいとかそういうことではなく、ただ思ったことを書き連ねるだけのものとなります。

御容赦下さい。

 

さて、人生とはなんだろうか。

人は何のために生きるのだろうか。

まぁ、幸せになるためというのが妥当なところなのだろう。

幸せになること。

ここでは、これを人生の最終目標と仮定する。

(尚、幸せとは万人にとっての幸せではなく、個人にとっての幸せとする)

幸せになることが人生の最終目標である以上、人は幸せになるために様々なことを行う。

その過程で、誰か人に迷惑をかけるかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。それでも幸せになることは望まれることなのだ。

幸せになること。

この事自体は本来、万人に望まれるはずのもの、つまり良いことだと考えられる。

しかし、それが、自殺という手段をとった瞬間、望まれないものへと姿を変えてしまう。何故か。 

 

例えば、いじめられている子供がいたとしよう。学校ではいじめに遭っているが、親には、心配をかけまいと、何も無いふりをするそんな子供。

いじめられている子供は、初めは自分がいじめられているということを認めようとしない。

「これはいじめじゃなくて、単なる遊びだ。」

いじめられていると認めたとしてもまだ希望を持っている。

「明日になったら、いじめは終わっているかもしれない」

しかし、次の日が来ようとも、別に何も変わることはない。続くいじめ。希望は次第に薄れていく。「週末が過ぎたら、いじめは終わっているかもしれない」

そんな風に何も変わらない日々が過ぎていく。

次第に、希望を持っても無意味だということに気づく。希望を持つだけ損だということに。

しかし、家では、まさかいじめにはあっていないふりをする。家のドアの前で笑顔を作り、ただいまを言う。親に嘘をつく罪悪感も芽生えてくる。

学年が上がり、クラス替えが起こるまでの辛抱だと自分に言い聞かせるようになる。

そのうち長期休暇がやってくる。

解放的な日々。学校に行かなくてもいい。しかし、そんな月日はすぐに終わってしまう。でも、学校から離れたいじめられている子供は忘れていた希望をもう一度持ってしまう。

「夏休みが過ぎたから、みんな飽きていじめは終わるかもしれない」

そして裏切られる。何も変わらない。

この辺りから次第に疲れてくる。学校に行くのも、親を騙すのも。希望を持つことはとっくに諦めた。そして子供は自殺を決意した。そして自殺した。

 

さて、この場合この子供を責めることが出来るだろうか。いじめから逃れるために自殺をしたこの子供を。

いじめられるのは不幸なことだ。

いじめられないのは幸せなことだ。

つまりこの子は幸せになるために自殺を行った。そう言うことができる。

確かに誰かに相談して、その結果いじめが無くなれば、自殺という選択肢をとる必要はなかっただろう。

でも、その時この子にとっては自殺が、最も手っ取り早く幸せになる方法だったのだ。

他にも、病が治らず、ただ死に向かって行くだけの子供がいると考えよう。その子が死を望むことを悪と言えるだろうか。じりじりと死へ向かっていくぐらいなら、自ら死を選ぶということがあってもいいのではないか。(これは、尊厳死安楽死に関係する話だが、そこについて今は議論を深めるつもりは無い。)

 

幸せになること。

それが人生の目標なら、

「こんな事なら死んだ方が幸せだ」

と言う人を否定することは簡単にはできないと私は思う。

 

 

前述の通りこの文章にはあまり意味はありません。自殺を推進しているわけでもありません。ただ、こんな考え方があってもいいんじゃないかと思ったことを書き連ねたまでです。

長々とした駄文、読んでいただき本当にありがとうございます。

この文章を読んで不快に感じた方がいらっしゃいました申し訳ありません。